大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所 昭和41年(ネ)75号 判決

控訴人

前野悦次

控訴人

前野照子

右両名訴訟代理人

幸野国夫

被控訴人

日本専売公社

右代表者総裁

東海林武雄

右指定代理人

山田二郎

(外二名)

主文

原判決を取消す。

控訴人等の訴を却下する。

訴訟費用は、第一、二審とも控訴人等の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人両名に対し各金五〇万円及びこれに対する昭和四〇年三月二一日より完済まで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次の一、二、を附加する外、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

一、控訴代理人は、次のとおり述べた。

(一)  乙第五号証の一の示談書に記載されている不起訴合意条項は、単なる例文であつて法的効力のないものである。

(二)  右示談書成立後、控訴人両名は昭和四〇年二月二七日被控訴人広島地方局を訪れて、亀井正部長、石井新三に面会し、右示談書中の不起訴合意条項の削除を求めた。その際、亀井正は控訴人等に対し、「どうしても気が安まらねば裁判して貰つても結構だ」と答え、民事訴訟の提起を示唆し、且つ応訴の意思を表明し、これにより右不起訴合意条項を明示又は黙示的に合意解除した。そうでないとしても、不起訴合意条項の法的拘束力を放棄したものであるから、被控訴人がこれを訴訟上主張することは許されない。

(三)  被控訴人の右不起訴合意条項に基く抗弁は訴訟法上の防禦権の乱用であつて、信義則に違反し無効である。

二、証拠<省略>

理由

まず、控訴人等の本訴請求は権利保護の利益を欠く旨の被控訴人の抗弁について判断する。

松永市松永町所在のもと被控訴公社松永出張所の構内に大平洋戦争中より防火用水池が設置せられており、同出張所廃止後も被控訴人がこれを所有し占有管理していたところ、昭和三九年四月一七日控訴人等の二男拓也(昭和三三年一〇月一七日生)が右用水池に落ちて水死したことは当事者間に争いがない。そして、〔証拠〕によれば、次の事実を認めることができる。

前記事故発生後、控訴人等は中根直人を、被控訴人側は石井甲三をそれぞれ仲介人として慰藉料の支払について交渉を重ねた。控訴人等は当初三〇万円ないし五〇万円の支払を要求し、被控訴人は七万円を支払う旨提案していた。結局、被控訴公社広島地方局長は慰藉料として金一〇万円を支払うことを決定し、同局総務部調査役石井新三は示談の内容として「(イ)乙(被控訴人)は甲(控訴人等)に対して慰藉料として金一〇万円を本件示談の成立と同時に支払うこと。(ロ)上記令息拓也君溺死事故による御両親の損害については当事者双方協議の結果、上記条件をもつて一切を円満に示談解決することを約しました。(ハ)よつて、今後本件に関しては如何なる事情が生じても決して異議の申立訴訟等一切しないことを確認致します。」と記載した示談書(乙第五号証の一)を作成した上、昭和三九年七月九日松永市におもむき、控訴人等と示談の交渉をした。その結果、控訴人等は右示談の条件を承諾し、右示談書二通にそれぜれ押印し、且つ同日附の金一〇万円の領収書(乙第五号証の二)を作成して石井新三に交付し、同人より金一〇万円の支払を受け、ここに右示談書記載の内容通りの和解が本件当事者間に成立した。

以上のとおり認めることができる。控訴人等は、前記乙第五号証の一の示談書に控訴人等が押印したのは、「このような形式をとらなければ被控訴人より金を出す方法がないので押印して貰うが、後日訴訟等をしても差支えない」旨の説明を受けたためであるから、右示談書中前示(ハ)の不起訴の合意は成立していない旨主張するけれども、原審における控訴人前野照子、原審及び当審における控訴人前野悦次各本人尋問の結果中、右主張に副う部分は、前掲各証拠に照らして信用し難く、他に右主張事実を認めて前示認定をくつがえすに足る証拠は存在しない。

次に、控訴人等は、前示示談書中の不起訴合意条項は、例文であつて法的効力のないものである旨主張するけれども、右主張を肯認し得る資料は存在しない。

次に、控訴人等は、右不起訴の合意は要素の錯誤により無効である旨主張するけれども、前記認定事実並びにその認定に供した前掲各証拠に照らして制断すれば、右不起訴の合意につき控訴人等の法律行為の要素に錯誤があつたものと認めることはできない。次に控訴人等は前記和解は被控訴人の詐欺による意思表示である旨主張するけれども、前示各控訴人本人尋問の結果中右主張に副う部分は信用し難く、他にこれを認めるに足る証拠は存在しない。

次に、控訴人等は、前記不起訴合意条項は昭和四〇年二月二七日合意解除され、或は被控訴人においてその法的拘束力を放棄した旨主張するけれども、当審における控訴人前野悦次本人尋問の結果中右主張に副う部分は当審証人石井新三の証言に照らして信用し難く、他に右主張事実を認め得る証拠はない。

最後に、控訴人等は右不起訴条項に基く被控訴人の抗弁は訴訟法上の防禦権の乱用であつて、信義則に違反し無効である旨主張する。しかし、前示認定事実並びに弁論の全趣旨に照らして判断すれば、被控訴人の右抗弁が防禦権の乱用であることを認めることはできない。

ところで、本件訴訟に提出された全資料から判断して、控訴人等が被控訴人より金一〇万円の慰藉料の支払を受けて前記不起訴の合意をなしたことが公序良俗に反するものと認めることはできない。本訴の訴訟物たる本件事故に基く控訴人等の被控訴人に対する慰藉料請求権は私法上の権利であつて、控訴人等において自由にこれを処分し得るものである。そして、控訴人等が前示和解において前記事故に関して将来訴訟を提起しないことを合意した以上、控訴人等は本件慰藉料請求権を訴求するにつき権利保護の利益を失うに至つたものといわねばならない。権利保護の利益は訴訟要件と解すべきものであるから、その不存在にもかかわらず提起された訴は不適法である。したがつて、本訴は不適法としてこれを却下すべきものである。原判決が控訴人等の本訴を権利保護の利益を欠くものと判断しながら、本訴請求を失当として棄却したのは不当であるから、原判決は取消しをまぬがれない。

よつて、民訴法三八六条、九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。(松本冬樹 辻川利正 浜田治)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例